悠久の時間が作り上げた内モンゴルの『いのちの塩』
天外天塩は北京より北西へ1,000km以上離れた内モンゴル自治区アルシャン地方の塩湖から生まれた塩です。
3億5000年前、大平原アルシャン地方は海でした。地殻変動により陸地に閉じ込められた海水は水分が蒸発・結晶化して、巨大な岩塩層を作り出しました。
ヒマラヤ山系の伏流水が大平原の岩塩の地層に湧き出し、アルシャン地方に汚染とはまったく無縁の巨大な塩湖を生みだしたのです。
地元の人が『いのちの塩』と呼ぶ豊かな味わいは、悠久の時間が創りあげた大自然の恵みです。
この『いのちの塩』と木曽路物産の出会いは1997年にさかのぼります。
内モンゴルでの味噌製造のための塩探し
木曽路物産が内モンゴルで一番最初に取り組んだ事業が、1993年のウランホトでの無農薬・有機栽培の大豆や米を原料とした「味噌づくり」(天外天味噌ブランド)でした。味噌をつくるために大豆や米の他に水と塩が必要です。ウランホトには「いい水」は豊富にあります。あと味噌作りに必要なものは塩。もっと味噌の味を引き立てる「いい塩」がほしい! そのために内モンゴルで良質の塩を探し始めたのです。
1990年代、中国の改革・開放路線が進んでいたとはいえ、内モンゴル自治区は日本人にとってまだまだ未開の地でした。当時は国際通話ができる電話が自治区政府施設と郵便局にしかなく、日本との連絡もろくに取れない時代です。
塩に関しても誰かが探してきてくれることなどありません。塩に関する情報が入れば自分たちで何日もかけて車で現地に行って、自分の目で直接確認するしかないのです。
ある時、「アルシャン地方で塩がたくさん採れる」という有力な情報が入ってきました。古文書にも「アルシャンには大小たくさんの塩湖がある」と記述があり、即座にアルシャン地方に向かいました。
首府フホホトから西南西へ約500㎞。その間いくつもの検問所を通過します。車で3日かかりましたが、内モンゴル自治区政府発行の通行許可証があったから、わずか3日で到着できたとも言えます。
実は中国でビジネスを興す場合には、地元政府の協力が絶対に必要です。木曽路物産の場合、味噌製造ビジネスを興す際に内モンゴル自治区の政府と信頼関係を結んでおり、塩探しの旅には地元有力者と繋がりの深いゲルラトヤ氏を案内人としたことで、外国人が入れないようなところにも行くことができ、比較的自由に行動することができたのです。
そうしてアルシャンの塩湖を初めて見た時の鹿野の感想です。
「アルシャンの砂漠の中に突如、見渡す限りの塩湖が広がっている、その光景に絶句しました。内モンゴル最大級の塩湖だったのです。湖の底に溜まっている塩はすくい上げるとそのまま使えるきわめて良質なものでした」(採取して天日干ししただけの塩は『天日湖塩』として販売しています)
味噌製造のための塩は手に入りました。
鹿野はこのすばらしい塩を日本に輸入・販売したいと考えたのです。
立ちはだかる規制の壁…塩の専売法
当時の中国には様々な規制がありました。内モンゴル自治政府が了承しても、中国政府による塩の専売法により輸出の許可が出ませんでした。
そして、それ以上に厳しかったのが日本の専売法でした。
塩は人間が生きていくために必要不可欠なものであるため、古来より様々な国や時の権力者が、塩を独占販売することで莫大な利益を得てきました。
日本は海に囲まれた島国ですから塩が豊富にあるように感じられますが、海の塩は海水を煮詰めて精製する必要があり、そのまま結晶で掘り出せる岩塩に比べて大変な労力が必要でした。日本には岩塩鉱床はありませんから、古来より塩の生産に適した各地の海岸には塩田が作られ、特産品として生産販売されました。
日本に塩の専売制が敷かれたのは1905年(明治38年)。日露戦争の戦費調達、外国の安い輸入塩から日本の塩田業を守り、ひいては日本の塩産業の発展のためなど、様々な理由がありました。
実際に専売制度によって塩は安定供給され新しい製法(第二次世界大戦後、特殊な膜を使って海水から塩化ナトリウムの濃縮液を作り出すイオン交換膜製法が確立された)や品質向上、大量生産化の実現など着実に発展していきました。その一方で伝統的な塩田の全廃止や品質・安定供給優先で味の選択肢はない等、問題点も多くあったのです。
鹿野が内モンゴルの塩を輸入したいと考えた1997年(平成9年)、日本は明治以来の専売法により塩の製造販売認可を受けた企業以外、すべて「塩輸入禁止」「塩販売禁止」でした。
禁輸の塩を裏技で輸入!
中国の専売法と日本の専売法、二重の規制をどうやって乗り越えるか。様々な人物に相談するうちに中国側は年間5000トンの塩を買えば輸出権を設定してくれることがわかりました。
そして日本側でも1つの方法が見つかりました。元税関長をしていた人が「試験輸入という方法がある」と教えてくれたのです。ただし1社100トンまで。輸入した会社が自社で使うことはできないという条件でした。桁が一桁違うということであきらめかけた時、1つの方法がひらめきました。
「1社100トンなら50社集めれば5000トンだ」
同業者や知り合いの経営者に声をかけまくり、50社の賛同を得て各社100トン、合計5000トンの塩を輸入する手続きをとりました。
アルシャンの塩はトラックで鳥海(ウーハイ)まで運ばれ、そこから列車で天津へ。天津から船積みされて名古屋港に到着。1997年7月のことです。
日本でモンゴルの塩販売へ
50社に協力してもらって5000トンの塩を輸入する際、国内での塩の売り先は木曽路物産が何とかするという約束でした。鹿野は内モンゴルの塩の営業マンとして、今度は日本中を走り回ることになったのです。
食に関するあらゆるセミナーや展示会に出展し、食関連の事業者に営業して回りました。
太古の海水の結晶という原料そのままの天外天塩は、工場で大量生産された塩よりも、味に深みがあり、確かにおいしい。
そのおいしさを広く知ってもらうためにはまず一流の料理人に認めてもらうことが大事だと考え、東京の一流ホテルにターゲットを絞って厨房に日参しました。
門前払いされ、シェフには見向きもされない中、数十回にもおよぶ訪問を繰り返し、ついに総料理長に会ってもらうことができました。
料理人にとって塩は味付けの基本であり、塩を変えるということは今までの料理の味付けがすべて変わってしまう。だからよほどのことがない限り塩は変えたくない。これが門前払いされ続けた大きな理由です。
その理由も考慮した上で、総料理長は内モンゴルの塩をおいしいと認め、新しいレシピでの採用を決定してくれました。一流のホテル料理人のお墨付きによって「内モンゴルの塩=おいしい塩」として販売できる道筋が作られたのです。
天外天塩のブランドの確立
1997年(平成9年)に規制緩和の流れの中で塩専売法が廃止され、新しく塩事業法が施行。そして2002年(平成14年)、塩の販売は完全自由化されました。
塩専売法時代、塩は「食塩」と「並塩」の2種類だけでしたが、完全に自由化された現在は様々な種類の塩が販売できるようになったのです。
木曽路物産の内モンゴルの塩は、製法によって大きく3つに分けられます。「岩塩」「天日湖塩」「精製塩(天外天塩)」です。
岩塩 |
内モンゴルの岩塩は悠久の時間をかけて生成された塩の結晶そのもの。ロック状のその姿は見る人に興味以上の感動を誘い、塩コーナーの奥行きと広がりを感じさせます。 |
---|---|
天日湖塩 |
一般的に天日乾燥させてつくった塩のことを天日塩といいます。これは「原料」ではなく「製法」の名前です。これらは一般的には海水を原料とした塩に使われます。それに対して、砂漠に結晶した岩塩が、ヒマラヤからの伏流水で溶かしだされ、湖にて再結晶した塩をそのまま採取して、飽和食塩水で洗い乾燥させたもの。これらを天日湖塩と呼んでいます。 |
天外天塩 |
岩塩を溶解させて結晶したものを真空蒸発缶で精製しました。一粒一粒のメッシュが極めて細かく、乾燥しているので使いやすさは抜群です。またpHは9.5で、高い浸透性があります。 |
木曽路物産ではそれを用途に合わせてさらに36種に分け『天外天塩』ブランドを確立しました。
和食の煮付けに合う塩、パスタにマッチした塩、味噌や醤油づくりに適した塩、パン・ハム・漬け物製造に適した塩等、様々な食品やその業界で使いやすいように工夫してあります。
料理人・食品業界は味が変わることを嫌うという教訓から、新レシピの提案と共に『天外天塩』を売り込んだ結果、食品製造・加工の業務用として、外食産業の調理用として、こだわりの消費者の愛用品として、日本全国に広まっていきました。
今では内モンゴルの塩といえば、天外天塩といわれるまでにブランドとして大きく成長したのです。